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ペストの悲劇、そして勇敢だったイーム村 Eyam


今日は小さな村に起きた悲劇と、そしてその勇敢な決断によって近隣の村や大都市へ感染する事を阻止し、多くの命を守り抜いたお話を書きます。

その村の名前は「Eyam(イーム)村」

美しい丘に囲まれ、多くの川によるみずみずしい土地だった事から、古い英語で「水の土地」という意味を持つ名前のこの村は、同時に黒死病で1665年から1666年までの14ヶ月に260人もの村人が亡くなったという悲しい歴史を持つ村でもあります。

1665年の9月の事。村の仕立屋の助手、ジョージが倫敦から届いた布地の詰まった小包を開けました。

この布地は新品だったという記録がなく、もしかしたらロンドンで大流行したペストで亡くなった方の物だったかもしれないそうです。

開けた瞬間に悪臭を放ち始める異様に湿った布地の束を乾かそうと、煖炉の火の前に布地を広げてから彼が亡くなるまで、たったの一週間。

それから彼の雇い主夫妻の子供達を始め、ジョージに接触した人々が次々に亡くなった所から悲劇は始まります。

イーム村が特別である点は、村民自らが一致団結して、全村隔離した所です。そこには自分たちの村で犠牲者が出るだろうという予測もありましたが、収束するまで隔離される事が、被害を最低限に抑える事になると見据えての事でした。

自体を重く見た当時の地域牧師モンペッソンとピューリタンの司祭スタンリー氏の二人により、翌年の1666年 6月に三つの取り決めが村人に発表されます。

三つの決まり

一つ目は「死亡者が出た家族は自らの手でその遺体を家の敷地内に埋葬する事」  ー伝染病で亡くなった遺族の家族以外にまでうつしてしまうのを避ける為。

この決まりのため、村人の一人であったエリザベス ハンコックさんはたった8日間の間に夫と6人の子供達を喪い、自らの手で全員を埋葬しました。

上記の取り決めが決まる前に他の村人の埋葬を助けてしまったハンコック一家が感染し、7人もの家族を喪ったエリザベスさん。

亡くなった夫の脚を体全体で引きずり、埋葬する彼女の痛々しい姿は村の博物館の栞にも描かれています。

エリザベスだけが生き残り、隔離が終わってから村を出て、大きな都市に引っ越し、そこで再婚し、新しい家庭を持ちました。

その子孫が、後にハンコック一家のバラバラに埋まっていた遺骨を掘り起こし、一箇所にまとめてまた一家が一緒に安らかに眠れる様にと新しくお墓を作り、石に囲まれた墓地にしました。

その墓地はRiley’s graveと呼ばれ、今でも自由に訪れる事ができます。

二つ目は「教会ではなく、村はずれの原っぱで集会を行う。でも葬式は行わない」   ーこれは密室で会合を開くとどうしても感染の疑いがある人達とも接触してしまうのを避けた。


ちょっと写真が遠いのですが、博物館で展示されていたこのパネルの左側の上の絵に当時の集会の様子が描かれています。

屋外で、そして牧師が洞窟の様なところに立っているのが見えます。

右手の蝋人形はモンペッソン牧師です。彼の家で実際に使われていた木製の椅子なども展示しています。

三つ目は「誰も出さない。誰も入れない」をモットーにした自発的な隔離。   ーそうする事により、自分達が助かる確率が少なくなっても村外へ被害が広がるのを避けました。

その自己犠牲の精神を基にした英断を近隣の村もサポートし、食べ物や薬等の必要な物は近隣の村人や、貴族(チャッツワースのデヴォンシャー公爵等)が届けたそうです。

でもその救援物資を受け取るのはイーム村の人達には無料ではなく、大きな石に穴を穿って村はずれの原っぱに置き、きれいに洗ったお金をその穴に注いだ酢に漬けて置いたそうですが、今でもその時に使った石の幾つかがそのままあります。


(写真はウィキペディアより)

この真にキリスト的で勇敢な犠牲の精神からなる英断で、周囲の村、そしてシェフィールドなどの大都市への感染は免れたのでした。

ですが、1665年の9月に発生したペストがやっと収束したのは翌年1666年の11月。

たったの14ヶ月の間に250人もの死者を送り、埋葬したこの小さな村の人々の悲しみは想像もつきません。

モンペッソン牧師とその家族

感染を留める事に尽力したモンペッソン牧師(当時28歳)の妻であったキャサリンは牧師に村を一緒に去る事を懇願しましたが、牧師は彼女と子供達をシェフィールドの親戚の家に旅立たせようとしました。

子供達だけを送り出した後、彼女は牧師の側に残り伝染病におののく村人達の手伝いをする内に感染し、帰らぬ人となりました。

彼女が感染した時は、もう感染が収束したかに見えた時期だったそうです。

夕刻に夫婦で外を歩いていると、キャサリンが

「あら、今日は空気が甘いですね」

と一言言います。

その瞬間、モンペッソン牧師は彼がかけがえのない戦友でもあった妻をじきに喪う事を知るのです。

ペスト感染の最初の兆候の一つは、なぜか空気を甘く感じる事であるいう事実を、牧師は知っていました。

その数日後、キャサリンは帰らない人となりました。

自分の身を犠牲にして夫と共に村人たちを支えたという彼女の働きを讃え、現在でも8月の最後の日曜はイーム村に有る彼女の墓に花を贈るというPlague Sunday(ペストの日曜日)に村人が参列するそうです。

シェフィールドの親戚の家に預けられて無事だった子供達の内、長男がこのイーム村の悲劇の記録をのちに一冊の本に記します。

モンペッソン牧師は妻亡き後も牧師として働き、同じイーム村で夫を亡くし、未亡人となったエリザベスと結婚しました。

エリザベスの親戚で有力者だったサー ジョージ セヴィルの後援でのちにノッティンガムのサウスウェルという町の大聖堂参事会員となったモンペッソン牧師でしたが、その後のリンカーン大聖堂の主任牧師へのオファーは断り、生涯小さな教会で町の人々に尽くした後の1709年、70歳でその生涯を閉じました。

現在のイーム村

現在は、まるで時の流れをそのまま止めてしまったかの様な石造りの可愛らしい家やお屋敷が立ち並ぶ中、プレイグ コテージ(このコテージに仕立て屋があった)等の当時そのままの家々の前に表示の看板が立ち、村の歴史に興味を持った観光客を歓迎しています。


1666年の悲劇を展示した博物館もあり、結構リアルに蝋人形などで再現していてビックリしますが、近隣の小学生達も学校の遠足で訪問するそうです。

この装束は、当時の医師が患者の家を訪問する時の物を再現した物。

くちばしの様に見えるマスクの中にはハーブや薬草が入っており、感染を防いだそうです。

当時はこんな姿の医師が町を歩いている情景だったのですね。


こちらは仕立屋のジョージと仕立屋のおかみさんの再現コーナー。

もちろん、キャサリン モンペッソンのお墓へも一般の人が行けますし、ライリーズ グレイブス(上述のハンコック一家の個人墓地)へも、そしてバウンダリー ストーンズへも歩いていけます。


可愛らしい村に似合う素敵なティールームも数件あり、ウォーキングコースもあるので、観光に訪れるイギリス人も後を立たない様です。

写真は「カフェ ヴィレッジグリーン」という小さな可愛いカフェにて。

とっても美味しく、居心地の良いカフェでした。

近場にはカーバー エッジなどの絶景ポイント、更にハサセッジやキャッスルトンも近いので、お客様のご要望があればぜひイーム村とその周辺もご案内したいと思っています。

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